フランス料理とは

伝統フランス料理の王道を守りソースと食材の完璧な出会いを仕立て上げる。やがてそれらは溶け絡み合いそして人を至福の世界に導く。その日の天候や温度で味はいくらでも変わる。その全てを見極め最高の料理を提供する為精進を怠らない。それが数百年もの伝統を持つフランス料理を作るべき姿でありフランス芸術料理を作る料理人は次世代に伝える義務がある。

                                                                 料理研究家スマイリー       

 

■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■料理研究家スマイリーが提唱する料理の哲学・料理の科学・料理の芸術と■■■■■■■■■■■■■■■■■

料理の哲学とは美味しい料理を食べたい!そして美味しい料理を大切なあの人に食べさせてあげたいそれが料理の哲学です。

料理の科学とは料理が決まれば食材が決まりその食材にどれだけの熱量を加えれば美味しくなるのかそれが料理の科学です。

料理の芸術とはこの世には芸術と呼ばれるジャンルが6つあり、建築・彫刻・絵画・音楽・詩そして6つ目の芸術が料理です。

フランス料理の歴史

中世ギヨーム・テレル別名タイユヴァンが宮廷料理を仕切るが料理は肉を焼き大皿から直接に手づかみで食べる粗野な料理だった。

ルネサンス期カトリーヌ・ド・メディシスがイタリアの名家メディチ家から時の王アンリ二世に嫁いだ時の専属料理人こそがイタリアの料理技術と料理文化をフランスにもたらした。

フランス革命宮廷の崩壊により職を追われた料理人が街角で市民に料理を提供したことがレストランの始まりである。

ガストロノミーとは、文化・料理・科学の関係を考察することで美食学と訳されます。美味しく料理を調理して食べることだけを指すものだけではなく、ガストロノミーとは、料理を中心として、様々な文化的要素で構成され美術や社会科学、さらにはヒトの消化器系の点から自然科学にも関連があり、料理研究家スマイリーは『医食同源PROJECT』を通じてガストロノミーを行政・大学・企業・NPO・メディアと連携し伝えています。


フランス料理偉人伝

【マリー・アントナン・カレーム】

フランス料理の原型は、ルネッサンスの時代にイタリアから影響を受けながら形成され、宮廷料理として発展した。そのフランス料理にカレームが与えた影響は幅広い。例えば、彼はフランス料理のコックのかぶる帽子や新たな鍋などを考案している。またカレームは、ベースとなるソースによって全てのソースを4つの基本ソース(ソース・アルマンド、ソース・ベシャメル、ソース・エスパニョール、ソース・ヴルーテ)に基づき分類した事でも知られている。また、カレームによる新しいフランス料理は帝政ロシアの上流階級の食文化にも影響を与えた。

【オーギュスト・エスコフェ】

エスコフィエの最大の功績はフランス料理の創始者として知られるマリー・アントナン・カレームの技法を基礎としながらも、カレームが築き上げた精巧で装飾的な意味合いの濃厚な料理を単純化し調理法を体系化することによってフランス料理現代化の先鞭をつけたことにある。また厨房に部門シェフを置くシステム「ブリゲード・ド・キュイジーヌ」を発案し一度にすべての料理を提供するサービスが主流だったフランス料理にコースメニューを導入したことでも知られている。

【ヴリア・サヴァラン】

フランスの法律家・政治家・偉大なるガストロノノミー(美食学)の祖・ガストロノーム(美食家)もっとも有名な著作である『美味礼讃』は1825年、死の2ヶ月前に出版された。原題は直訳すると『味覚の生理学或いは超越的ガストロノミー(美食学)をめぐる瞑想録、パリの食通たちに捧げられる理論的、歴史的、時事的著述』である。サヴァラン語録『ふだん何を食べているか教えてごらん、どんなひとだか当ててみよう!』『新しい星を発見するよりも新しい料理を発見する方が人間を幸せにする』

【辻静雄】

新聞記者から転身して大阪あべの辻調理師学校を開校し、本格的にフランス料理の研究に着手した。英仏の文献を元に独学していたがアメリカを訪れ料理研究家のサミュエル・チェインバレン、M.F.K.フィッシャーから研究の手ほどきを受けたのをきっかけにヨーロッパのレストランを巡り始めた。多くの料理人や料理関係者と親交を結び、本物のフランス料理に触れたことが料理への理解を深めた。渡欧のたびに収集した料理関係の文献は数千冊にのぼり、フランス料理古書などの稀こう本を含む世界有数のコレクションとなっている。その研究活動の成果は授業を通じて、また『フランス料理 理論と実際』などの著書によって学生たちの教育に還元された。

【タイユヴァン】

本名ギョーム・ティレル。1310年、生まれ。ギョーム・ティレルの名がはじめて歴史に現れるのは1326年、ジャンヌ・デヴルーの戴冠式関連の記述である。その時の彼はあたかも厨房の申し子であるかのようだったという。1346年に入るとフィリップ・ド・ヴァロワに仕えるようになり、ついで、ドフィヌ公の館に入り1355年には料理長になっている。ドフィヌ公はタイユヴァンにサンジェルマン・アン・レイの家を贈ったという。1359年から1361年にはノルマンディー公の料理長、1368年から1373年まではシャルル5世に仕えた。最後にタイユヴァンはシャルル6世に仕え、1392年には主席大膳頭となり、爵位を授けられている。ヴィアンディエの手稿は1373年から1380年にかけて書かれたものだといわれ、活字での出版は1490年である。

【フェルナン・ポナン】

フランスのリヨン近郊のレストラン『ラ・ピラミッド』のオーナーシェフ。1933年より死ぬまで3つ星を守り続けた。素材を生かした組み合わせは他の追随を許さない完成度で史上最高のフランス料理のシェフであろう。わが師、辻静雄がフランス料理を学んだのもラ・ピラミッドである。ポアン語録『すばらしい料理というものは客を待っていてはならない、すばらしい料理を待たなければならないのは客の方である。』『腕の良い料理人は自分の学び取ったもの、すなわち自分の個人的な経験のあらゆる結果を自分のあとに続く世代に伝える義務がある。』

【アンドレ・ピック】

アルデシュ県サン・ペレ生まれ。ローヌ地方で修行を積んだ後、36年に南仏の入口ヴァランスの町でレストランを開業する。39年にミシュランの3ツ星を得た。フェルナン・ポワン、アレクサンドル・デュメーヌとともに、戦間期のフランスの3大シェフと讃えられる。1889創業『ラ・メゾン・ピック』はソフィ・アンドレ・ジャックそしてアンヌと受け継がれ2007年一度失った3つ星をフランス唯一の女性3つ星シェフとして取り返す。

【アラン・シャペル】

1937年リヨンに生まれ。父の影響から料理人を志す。15歳で名レストラン、シェ・ジュリアンヌにて、ジャン・ヴィニャールの元で料理人の修行をはじめた。ヴィエンヌのラ・ピラミッドに移り、フェルナン・ポワンの元で働く。約5年の修行の後、3年間の兵役に服した。1967年、父の死によってラ・メール・シャルルを継ぎ、瞬く間に一流のレストランに育て1973年には店名を自身の名アラン・シャペルに変更。三ツ星を獲得し、以来フランスのレストランで最高峰とされる。生涯、フランス料理界に偉大な功績を残し『厨房のダ・ビンチ』と呼ばれた。

【アラン・デュカス】

史上最年少で3つ星を獲得したモナコ国籍のシェフ。パリのレストラン『アラン・デュカス』モナコのレストラン『ルイ・キャーンズ』の他、世界各国でレストランを経営する。ミシェランから異なる国で3つ星をつけられた史上初のシェフ。1956年フランス南西部に生まれ16歳の時、レストラン『パヴィヨン・ランデ』で見習い後、ボルドーのホテル学校に入学し1977南フランスのレストラン『ムーラン・ドゥ・ムージャン』に入りアラン・デュカスの料理の柱となるプロヴァンス料理と出会う。1978年パリのレストラン『アラン・シャペル』において2年間の仕事の後、アラン・シャペルを師と仰ぐようになる。

【ミッシェル・ゲラーㇽ】

1933年パリ郊外北西のヴェテュイユに生まれる。料理に適性を感じ、マントのクレベール・アリックスの下で見習いをする。そこで菓子と料理に関するあらゆる訓練を受ける。海軍での兵役を終えて1955年パリに出て、ホテル・クリヨンでシェフ・パティシエ、次いでシェフ・ソシエとして働く。ブルジョア家庭でシェフを数年務めた後、ブージヴァルのレストラン『カメリア』に入り、ジャン・ドラヴェーヌの下で働く。1965年、古典的な料理規則に飽き、自らパリ郊外のアニエールに小さなビストロを開店する。これが後『ポ・ト・フー』であり、ここに全世界の食通、パリの有名人が集うことになる。1972年以来ランド地方ウジェニー・レ・バンに落ち着き、田舎の静寂さの中で“おいしく食べてふとらない料理”を念入りに作り上げた。

【トロワグロ兄弟】

ソーヌ・エ・ロワール県シャロン・シュル・ソーヌ生まれ。その日に市場で仕入れた素材で料理を作ることを基本とし“トロワグロ・スタイル”を確立した。兄弟そろってパリのレストラン『リュカ・カルトン』『ヴィエンヌ』『ピラミッド』などのレストランで修業。フェルナン・ポワン に大きな影響を受ける。ピラミッドでの修業時代はポール・ボキューズとも一緒だった。1953年ロワレロアンヌに『レ・フレール・トロワグロ(現トロワグロ)』を開店。兄のジャンは1965年にMOF受賞。レストランとしては1968年にミシュラン3つ星を獲得。『トロワグロ』は兄のジャンの没後も3つ星を維持しつづけている。

【ピエール・ガニェール】

“厨房のピカソ”と呼ばれる前衛的料理の天才シェフ。料理人の両親を持ちパリやリヨンで料理人としてのキャリアを積む。ミシュランの星を獲得していた父と共に働く為アメリカに渡り修行する。1980年に独立し3つ星を獲得。1996年負債によりミシュランの星を返上し閉店する。その後、パリ8区の『ロテル・バルザック』にレストラン『ピエール・ガニェール』を開店し1997年2つ星を獲得し翌年の1998年3つ星に返り咲く。2001年物理学者エルヴェ・ティスと協力し、ガストロノミー・モレキュレール(分子ガストロノミー)の応用に取り組み始める。

【ベルナール・ロアゾー】

1951~2003バターを使ったこってりとした料理からの脱却を目指し、ヌーヴェル・キュイジーヌの影響を受け、素材の味を引き出すことに重点を置いた。バターや クリーム、オイルなど排除し、肉などの焼き汁を水で鍋肌から旨みをこそぎ落とすデグラッセで味を作ってゆく彼の料理を自ら キュイジーヌ・ア・ロー(水の料理)と呼んだ。2003年ミシュランガイドとは別のレストランガイドで低評価を受け自身のレストランで自殺をしたと報道された。彼の死後直後に発行されたミシュランガイドでは3つ星を維持していた。

【ポール・ポキューズ】

1959年生家のレストラン『ポール・ポキューズ』を継いで1961年MOF(国家最優秀職人章)を取得1965年に得たミシュランの3つ星を50年維持している1970年我が師匠大阪あべの辻調理師専門学校校長 辻静雄の招きで日本に来日し懐石料理に触発されヌーベル・キュイジーヌ(新しい料理)の旗手と
なる。フランス料理の古典への回帰を説き、国際的な知名度とともに現代ランス料理界で特別な存在である。

【秋山徳蔵】

鯖江の陸軍で食べたカツレツに衝撃を受け料理人を志す。家族会館の見習いとしてキャリアをスタートさせ駐日ブラジル公使館、築地清養軒で働きフランスに渡航、オテル・リッツ・パリでオーギュスト・エスコフィエの下で半年働き、1913年宮内省に招かれ東京倶楽部大膳寮の初代厨司長となる。かくゆう私、料理研究家スマイリーは1980年TBSで放送された堺正章主演の『天皇の料理番』を見て料理人を志し今日に至る。

【カトリーヌ・ド・メディシス】

12世紀頃までフランスで食べられていたものはローストした肉と茹で野菜など質素な料理でその後、煮込み料理が食卓に登場するが手づかみで汚れた手はテーブルクロスで拭いていた。現在のフランス料理の原型は1533年フランス王であったアンリ二世が、イタリアのメディチ家のカトリーヌ と結婚したことに由来する。カトリーヌは嫁入りの時イタリアの料理人も一緒に連れてきた。当時、イタリア料理は最先端な料理でありこの料理法が貴族の間に広まり、フランス料理の発展に大きく貢献した。フランス革命以後宮廷から職を追われたシェフたちが次々とレストランを開き、フランス料理が市民の口へと入るようになった。

【フレディ・ジラルデ】

ジラルデ若き日ワイン業者に3つ星『ラ・メゾン・トロワグロ』に連れて行ってもらい料理の美味に驚愕しシェフになろうと決心する。父が56歳で死去し父のビストロを継いだジラルデはそれまでにないフランス料理の軽く繊細で革新的な料理技法ヌーベルキュイジーヌ(新しい料理)を展開し天才料理人と呼ばれる。ジラルデのソースは小麦粉の使用を避け煮込んだ肉のフォンで厚みを増すスタイルでガストロノミー(美食学)の評論家としても活躍している。ローザンヌ郊外のレストランオーナーシェフの『オテル・ドゥ・ヴァル』は『スイス銀行の金庫を破るより、ジラルデの店のテーブルの予約をとる方が難しい』と世に言わしめた。

【ベルナール・パコー】

皆さんベルナール・パコーというシェフを御存じでしょうか?メディア嫌いの有名なシェフで孤児院育ちの境遇で料理に人生をかけた天才シェフです。パリの伝説の3つ星『ヴィヴァロワ』で腕を磨き1981年『ランブロワジー』を独立開店し成功しました。ベルナール・パコーは言っています。『料理は素材に忠実に料理を行なうこと。できるだけシンプルに料理すること。手早く加熱して、すぐにお客さんに出すこと。料理とはそれを作る人間の考えの表現でもある』ということを愚直なまでに行う真の料理人です。

【北大路魯山人】

1883年京都市北区に生まれる。篆刻家・画家・陶芸家・書道家・漆芸家・料理家・美食家などの様々な顔を持つ。壮絶な幼少期であり1904年日本美術協会主催の展覧会に出品した『千字文』が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。様々な名を変え1916年北大路魯山人と名乗る。1921年会員制食堂『美食倶楽部』を発足。1925年東京永田町に星岡茶寮という会員制高級料亭を始めるが魯山人の横暴さや出費の多さから1936年星岡茶寮を追放されその後、銀座に『火土火土美房』を開店し在日欧米人からも好評を博す。つねに傲岸・不遜・狷介・虚栄・毒舌などの悪評がつきまとう魯山人だが人に媚びない姿勢は一本筋が通り好感が持てる。1955年人間国宝に指定されるも辞退する。

【小野 正吉】

ホテルオークラ東京初代総料理長。1961年にホテルオークラ設立準備委員会に迎えられる形で入社して以来、ホテルオークラのフランス料理を確立させ、調理部門からホテルオークラの発展を支えた。また、日本のフランス料理界の発展のために「日本エスコフィエ協会」の創設に尽力するなど、日本におけるフランス料理の礎を築き、その発展に尽くした。その功績は高く評価され、“日本のフランス料理の父”と称されている。

【村上信夫】

1921年5月27日 - 2005年8月2日)は、日本のフランス料理のシェフ、元帝国ホテル顧問。愛称は「ムッシュ村上」。日本でフランス料理を広めた功労者。帝国ホテルの料理長を26年間務め、『きょうの料理』の名物講師として家庭へプロの味を広めた。バイキング方式を日本で初めて行った。

【タレーラン】

タレーラン正式名シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴールといいフランスの政治家である。政治家としては『タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる』と酷評されたがその一方で敏腕政治家・有能外交家としての評価が高い。東西随一の美食家として知られ、シェフとしてアントナン・カレームを雇い、ヴァランセ城に居住させ重複のない、季節の食材のみを使用した1年間のメニューをつくる事を命じウィーン会議の夕食会をたびたび主催した。タレーランの出す料理は出席者の評判をさらい、カレームの名をヨーロッパ中に広げるきっかけとなったことはフランス料理文化の一躍を担っている。

【ルイ14世】

ルイ14世は当代切っての建築・装飾・造園の3大芸術家を使ってヴェルサイユ宮殿を建て絶対王制を敷いた。美食王と呼ばれたルイ14世は大食漢でお抱え料理人は324人もいた。この時代にはイタリア伝来フォークが普及し、新しい食卓作法が生まれてはいたがルイ14世はフォークではなく手づかみで食べていたという。料理は退廃的ではあったが近代フランス料理の礎が築かれたことは間違いない。

【ギィ・マルタン】

サボア出身。23歳から料理の世界に入る。料理人としては遅いスタートだが30歳までには料理人に贈られる賞を総なめにする。1760年創業の『ル・グラン・ヴェフール』はナポレオンやアレクサンドル・デュマも訪れた歴史的名店だが1983年以降17年間に渡りミシュランの星を落としていた。しかし1991年ギィ・マルタンが料理長に就任した後の2000年には3つ星に返り咲く。ギィ・マルタンによって短期間で復活を遂げたたル・グラン・ヴェフールは
再び世界中の美食家たちの舌を唸らせるようになった。ギィ・マルタンは親日家でnext age(次世代)の食育に熱心なことでも知られる。

【ナイジェルスレーター】

自叙伝であるは『トースト 幸せになるためのレシピ』は出版されベスト
セラーになった。父の気を引くために継母と競り合うように料理に没頭していく、父の急死を機にまったく折り合わず愛情も感じられない継母と縁を切り、16才で家を出て料理の世界へ入っていく。ナイジェル・ スレーターの料理は手に入りにくい食材や面倒な調理ステップは一切不要!調理時間も分量もあくまでアバウト、料理に何時間もかけるのはナンセンス手早く作って楽しく食べるをモットーにシンプルレシピで美食の喜びを最大限に引き出すイギリスのセレブリティシェフ

【エリック・フレシァン】

『ル・ブリストル』『タイユヴァン』『ラ・トゥール・ダルジャン』『オテル・ デュ・クリヨン』パリに燦然と輝くガストロノミーレストランで修業を重ね、1993年にはMOF(フランス最優秀職人章)を料理部門で獲得。その後、パリの町外れで高感度ビストロを経営した後、1999年から古巣「ル・ブリストル」の総料理長として活躍する。2009年にはミシュラン3つ星を獲得しMOFと3つ星というフランス料理に携わる人間の頂点を極めた。商業主義に走ることなくひたすら料理に愚直に向かう姿勢はもはや料理人であって料理人にあらず芸術家であり、客は彼の芸術に対価として料金を支払い儚くも消えゆく芸術に永遠に残る味の記憶として恍惚に浸る。フレシャンの料理は味合えなくとも彼と同じ時代に生きた事だけでも幸運といえよう。

【キュルノンスキー】

本名モリス・エドモン・サイヤン。別名“食通の王” フランス郷土料理の素晴らしさを伝えた最初の料理研究家。 著書の『美食の国フランス全28巻』はフランス料理を高級料理・ブルジョワ家庭料理・地方料理・農民料理の4つに分類し、美食とは高級な宮廷料理ではなく郷土料理の豊かさにこそ素晴らしさがあると言うことを提唱した。『ミシュランガイド』の創刊当時からの顧問を務め彼の残した功績は数知れず。現在の”フランス料理”があるのも、またそれが2009年にユネスコ無形文化遺産に登録されたこともキュルノンスキーの存在が大きい。パリの17区には、『キュルノンスキー通り』と名づけられた道があり彼の功績を讃えている。

【ヘストンブレメンタール】

英国を代表するシェフ、独学で料理を学び、1995年にロンドンの西郊のバークシャー州ブレイ村に築450年のパブを改造したレストラン『ファット・ダック』をオープンする。科学実験好きな料理人であり既成概念や常識にとらわれずガストロノミー(美食学)をふんだんに取り入れた斬新なメニューを次々と創作し,今もっとも進歩的なシェフと評される。ファット・ダックはミシュランの3つ星を獲得しており、また2005年にはレストラン・マガジンにより「世界のベスト・レストラン」に選ばれている。

【アレクサンドル・デュメーヌ】

フランスの戦間期の3大シェフの一人。ソーヌ・エ・ロワール県のディゴワン生まれ。主に、パリ、ヴィシー、カンヌなどの大ホテルでキャリアを積み、北アフリカのホテルチェーンでも総料理長として活躍した経験を持つ。1932年、コート・ドール県ソーリューにホテル・レストラン『コート・ドール』を開店、1951年にはミシュランの3ツ星を得た。1964年に引退。

【ジョエル・ロブション】

ポワチエ出身。15歳でホテル『ルレ・ド・ポワチエ』の見習いとしてキャリアをスタートさせ、28歳でコンコルド・ラファエットホテルの総料理長に就任、1981年に独立しジャマンを開店、後に店名を『ジョエル・ロブション』へと改める。1990年以降は日本での活動が豊富でフレンチの皇帝と称される。『最高の状態でやめたい』と言ってジョエル・ロブションを閉店、現役を引退。以降はレストランのプロデュース業と後進の育成に専念する。
「料理人は50歳を過ぎると腕が衰えてくる。だから自分は50歳になったら現役を引退するつもりだ!」と宣言しており、それを実行する形となった。

【三國清三】

1954年生まれ北海道増毛町出身、米店に住み込みで働きながら夜間の調理師学校に通う。札幌グランドホテルにて修行を開始し20歳で帝国ホテル村上料理長の推薦で駐スイス日本大使館の料理長に就任。大使館勤務のかたわらフレディ・ジラルデに師事する。1985年東京・四ツ谷に『オテル・ドゥ・ミクニ』を開業しオーナーシェフとなる。三国シェフの料理は固定概念にとらわれず洋風の食材を一切用いてないものや、地場産品を工夫して使用する。かくゆう私料理研究家スマイリーは1986年柴田書店から発刊された『皿の上に、僕がある』三國清三著を見て衝撃を受けて以降、三國清三フリークを自認しており現在に至る。

【フェラン・アドリア】

ヨーロッパではフェラン・アドリアを世界最高の料理人と位置づけている。ホテルプラヤフェルスで皿洗いとして料理人のキャリアをスタートさせた。1984年『エル・ブジ』に採用されて料理人となり。18カ月後、彼は料理長となった。アドリア語録『料理は香り、 温度、舌触りの思いがけないコントラストを提供すること。全てが見た目通りではない。ディナーを挑発し、驚かせ、喜ばせるためにアイデアを出すこと。』『理想の客はエル・ブジに食事をしにくるのではなく、経験を積みに来る。』フェラン・アドリアはスペイン出身で分子ガストロノミー推進シェフの一人

【アリス・ウォータース】

「地産地消」や「ファーマーズ・マーケット」というコンセプトを発案し、オーガニック料理の母と呼ばれるアリス・ウォータース。約40年前、アメリカのバークレーに世界初のオーガニックレストラン「シェ パニース」を開店し、バークレーに食を中心としたコミュニティを創造、食を中心として新しいライフスタイルを提案している。アリスの提唱する9か条1.持続可能な方法で、環境に配慮して作られたものを食べるようにしましょう2.旬なものを食べましょう3.ファーマーズマーケットで買い物をしましょう4.庭で野菜やハーブなど食べられるものを栽培しましょう5.ものを大切にし、堆肥をつくってリサイクルしましょう6.料理はシンプルに五感を使うようにしましょう7.みんなで一緒に料理をしましょう8.みんなで一緒にご飯を食べましょう9.食べ物は尊いということを忘れずに

【ゴードンラムゼイ】

スコットランド出身の3つ星シェフ。ヨーロッパで人気のあるシェフでロンドンにある3つのレストランで合計7つのミシェランの星を持つ。15歳でサッカーのプロ選手になるが膝の故障が元で断念。その後料理の道に進み。数々の一流料理人の下で働きレストラン『Aubergine』のシェフとなり3年でミシェランの2つ星を獲得。性格は短気でありそんなキャラクターが受けてテレビ出演も多く、彼自身を追ったドキュメンタリーや、様々な問題を抱えるレストランを立て直す 無名の若手シェフにお題を与え、彼らを叱咤・罵倒しながら料理を競わせる『地獄の厨房』などは有名。

【田中彰伯】

東京都出身。若干15歳でフランス料理界に入る。23歳でフランスへ渡りパリの一つ星『ラ・ブールドール』でシェフ代行として務めた後、南フランスの『レ・サントン』のシェフを務めミシェランの一つ星に格上げする。同時期に独自の真空調理法を開発。日本に帰国後、代官山の『ロジェ・ベルジュ』の総料理長を務め、1993年フランス料理店『レ・クリスタリーヌ』の開店をかわきりに『コンコンブル』『クレッソニエール』と展開を成功させ、まさに名実ともに日本フランス料理文化の牽引者であり日本フランス料理界シェフとしての第一人者である。1994年エスコフィエ協会に入会。現在は料理人として地域活動に参加する一方、フランス料理を題材とした画家として数々の美術展に入選を果たしている